「料理のレシピ通りに作らない」のには訳がある

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こんにちは

こんにちは ちゃくまです。

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料理本をたまに見ますが、使っている材料と写真を眺めるだけです。初回は分量を参考にしますが、そのまま作ることはありません。さらに二回目以降、いわゆる「レシピ」と手順はスルーします。ほとんどレシピを参考に料理をすることは有りません。

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日常の家庭料理は感覚で作る

料理のレシピは初めて作るとき、「誰が作っても同じようになる」という意味で必要な情報です。けれども毎日の家庭料理を作るとき、いつもレシピのような計測に頼るのでは時間がかかります。確かにお菓子やパンを作るときには正確に分量を量らないと、きちんと形になりません。そういう種類の料理にはレシピ通りに作る事は必要です。けれども、本来、料理の味付けや調理とは、「このくらいの食材なら、このくらい」というように経験と勘で作るのが自然なあり方です。

いつも炊事をしていると、必要なお湯の量も勘で計測できるようになります。

カップ麺のお湯、量らずに適量の湯を沸かせますか?

調理の段取りや味付けは、工程をイメージしたら後はそのイメージに沿って全て勘で行います。結果としてたまに失敗もしますが、味はいつも普通です。普段の家庭料理はそれで充分です。

レシピは初回の参考に・使うのはそこまで

結婚当初、メニューによっては料理本を片手にその通り作っていたこともあります。けれども、一通り手順を覚えたら、レシピは無視していました。

そのような習慣は、おそらく子供の頃の状況が要因です。小学校高学年くらいになると、母が留守のときには小腹が空くと、自分で手作りのおやつを作ることがよくありました。「手作りのおやつ」というと聞こえが良いのですが、実際はそんな可愛らしいイメージではありません。あらかじめレシピ通りの材料を用意するような作り方ではなく、「あるもの」で作るのです。

冷蔵庫や台所を見て、パスタ、ホットケーキ、お好み焼き、プリン、クレープ、クッキーなどを中心に自分で自分のおやつを適当に作っていました。もちろん、母は留守にするときには必ず昼食とおやつを用意してくれていました。けれども育ち盛りの時は、すぐにお腹が空くのです。同時に「自分で作る」事が面白いという事もあったと思います。だから、そんなことを自然とするようになったのです。

そんな習慣のせいか、「今あるもの」で今自分が口にしたいと思う味と調理をイメージしたら、それを逆算して料理していくようなイメージで調理しています。それは今でも変わりません。

レシピは単なる伝達手段

全体の分量を目分量で把握したら、調味料や入れるタイミングもすべて勘です。レシピ本というのは、本来、正確に伝えるために書いてある分量や手順であって、必ずしも「書いてある通りに作れ」という意図はないのです。

初めはレシピを参考にして良いのですが、「だいたいこのくらい」という感覚を身に着けたら後はアレンジして勘で感覚でも作れるようになるための一つのステップであり、目安です。

「あるもの」で何とかするが基本

人の暮らしは、もともと「ある物で何とかする」が原点だったはずです。今、世の中に普通に出回っている料理の定番メニューなども、「今、周囲にある食べもの」を美味しく食べるために何とか工夫した結果、定着したものがおおいはずです。それがたまたま長い時代の経過を経て「美味しい料理のメニューのひとつ」として定着したのでしょう。何もなかった時代に、食べるものを作るときにはいちいち今でいう「レシピ」などに頼らず作っていたことでしょう。

「レシピがないと料理が作れない」ということはない

確かにレシピは誰が作っても同じように完成します。だからそういう情報は必要です。けれどもそれはあくまで正確に伝えるためです。レシピがないと料理が作れない、食べ物を食べられないということではないのです。何か一つの食材を手に入れた時に、その材料を見て、それを安全に美味しく食べるには、活かすにはどうすればよいか、それこそが重要です。

ギョーザに玉ねぎを入れても構わない

以前、テレビの料理番組で出演のゲストのタレントさんがギョウザの具に玉ねぎを入れていました。それを見てレギュラー出演のタレントさんがこう言うのです。「普通、ギョーザに玉ねぎって入れる?」隣でつぶやいて、怪訝な表情をしているのです。タレントさんはゲストさんを心配したつもりだったのかもしれません。けれどもギョウザとは、あくまでメニューとして定着した一つの形に過ぎません。多くの場合は、具材に使うのはひき肉、キャベツ、ニンニク、にせいぜいニラやネギなどを入れることが定番化しています。けれどもそこに玉ねぎのみじん切りを入れても何ら問題はないし「普通」も「普通ではない」もないのです。玉ねぎを入れないギョウザは、たまたま前例が少ないというだけです。そういう具材のギョーザが存在して良くない理由はありません。

勘と目分量で作れるのは人間だけ

このような事は常にレシピ通りに作るという思考に凝り固まっていると気付くことができません。料理は慣れている人ほど勘と目分量で作っていることでしょう。けれども、それでは他人に伝授することが難しくなります。だからこそレシピが存在しているのです。レシピがあって作り方がその次にあるわけではないのです。つまり、人の経験と勘の方が先なのです。計測値は二の次であり、目安に過ぎません。

今の時代、何をするのでも道具があります。確かに誰が量っても(測っても、計っても)同じである基準は必要です。けれどもその目安を知ることが出来たら、あとはそれを応用するだけです。外食チェーン店のような場合をのぞき、おそらく有名シェフや料理人などで、お菓子などをのぞいては、いちいち調味料を計測しながら作っている人は推測ですがいないのではないかと思われます。もちろん、大量につくるときには計測するでしょうが、少量ずつ注文の都度作るような場合には経験と勘で作っているはずです。おそらく何かを作る職人さんでも料理人さんにしても、経験の長い人ほど勘で作っても常に同じように作っています。

車を運転し始めの頃には、いちいち手順を確認しながらでないとスムーズにできません。初めて行く場所も童謡です。ところが何度かいくうちに、同乗者と会話しながらでも目的地にたどり着けるようになります。

人は勘で出来ることがたくさんある

つまり人は勘でできることがたくさんあるのです。ところが最近は、何をするにも便利な道具に頼り過ぎます。そして「これがないからできない」というようなケースが増えています。たくさんのレシピをストックするよりも、一つの材料を見た時に、それをその時の体調や気分、他の材料と考慮して最適な味付けや調理方法を連想するようにすること。そういう感覚を研ぎ澄ますことこそが一番重要です。料理の発端もそこにあるはずです。アクの強い食材や堅い食材、においの強い食材、これらを食べやすく安全に加工する油断が料理の原点です。

人間の能力をなくさない

レシピはあくまで目安です。人のすごさは、うまく数値化できない、言語化できない事でも何らかの経験や勘などで正確に必要なタイミングや、必要量の判断ができたりすることです。世の中の事の多くがどんどんデジタル化されて置き換えられることも可能になってきています。そういうものが主流になれば便利な反面、使っているようでいて実は、こちらが使われているような逆転現象が起きます。

そうした渦中に身を置くことが起きた時、人間である自分に出来ることはいったい何なのでしょう。それは、うまく言語化して数値化できないけれども判断できる、そんな曖昧な人間ならではの判断能力です。だからこそ、人が持っている曖昧な能力こそ、実は重要な物であり手放してはいけない分野なのです。それは料理のレシピを最初だけ確認したら2回目以降は勘で作る、そういう習慣の積み重ねが重要になってきます。

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