「偽友人(ぎゆうじん)」は要らない・女性は子供が幼稚園に入ると自らも幼稚園児に戻る

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本「簡単に暮らせ」

当ブログ「簡単に暮らせ」が書籍になりました。

8刷決定しました。8/19電子書籍リリースしました。
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こんにちは

こんにちは ちゃくまです。

女性は、複数人集まると、必ずグループで行動したがります。しかも、集まりを定例化したがります。けれども、大人なのですから、もっと柔軟に自由に、単独でも行き当たりバッタリ的でもいいと思いませんか?

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「ひとりぼっち」と思われないための友人が必要ですか?

確かに、女性はいろいろな面で弱い面があります。そのため、山の中とか、人気のない場所、時間帯によっては複数で行動する必要があります。集まりを定例化すれば、いちいち約束をする手間が省けます。けれども、集まりの定例化は「いつもは来るのにどうしてこない?」と面倒な詮索が始まることがあります。

子供がらみで顔を合わせた母親たちです。ところが偶然、居合わせただけの場所でも、「グループを作らなくては」という暗黙の緊迫感を持つ人が圧倒的に多いのはいったいどうしたことなのでしょう。

もちろん、自然発生的にそうなっているケースはあるでしょう。けれどもそれだけではないようです。それは子供の頃、学校のトイレに移動するのにも「単独で行くのは恥ずべき事」のような不可解な習慣が体に染みついているからです。

もっとも、さすがにそうした、おかしな習慣も、社会人となり仕事に携わると消えます。(職種や環境によると思います)ときに「お昼ごはんを一緒に食べに行く仲間」という似た現象が復活することはありますが、結果を出す業務に関わる人はそんな些細なことにエネルギーを使っていられません。

ところが、やっと子供のオムツが外れて、幼稚園に入り「やっとここまで来たか」という段階もつかの間、今度は「ママ友」というかつての「一緒にトイレに行くための仲間」を求め始める現象が復活します。

「ママ友形成したい派ボス」による階層化には参戦しない

その瞬間は、その人のキャリアとか、個人的に何が好きで何をしたいか、という事は一切リセットされます。そこで待ち受けているのは、容赦ない「ママ友何としても形成したい女性ボス」による階層化です。

こちらが参戦(?)する意志が全くないのにかかわらず、「ボス」の一存で強引に参戦させられます。そこで階層の上位に位置するのは、ママ友の交流がどれだけあるかによって形成されています。

この種の価値観の方達は、「参戦」する意図がない人に対して、参戦しないのではなく、自分たちの価値観における「ママ友多いほど強い教」の下階層に位置しているのだという視点を向けます。「参戦しない」「参戦するつもりがない」という意志を持つ人がいるなど想像もつかないのです。

もちろん、同年代の子供を持つ者同士が、困ったことや悩み喜びを共有することの必然性や楽しみは理解できます。

けれども、その集まりを習慣化して、グループも固定化されていくほどに、大人であって大人でない、不可解なママ友間のトラブルや悩みが始まってしまうというのは子供の成長と相反する行為だと思わずにはいられません。

そしてこの流れが、子供が小学校に入り、中学卒業くらいまで続きます。さすがに子供が高校生位になると、さすがの母親たちも落ち着きを見せて、分散します。こうした不可解な流れもいずれは自ら距離を保てば終焉を迎えますから心配は要りません。

大人なのに、とにかく群れたがる女性たち

とはいえ、「大人なのに、女性が集まるとグループを作ろうとする現象」は、そのまま年を重ねてもなかなか抜けないようです確かに、単独でいるよりも、複数でいる方が、食事をしに行くにも良い席に通してもらえるなどの利点があります。道に迷っても、誰かが正しい道筋を調べてくれます。何があっても心強い、安心という点があります。

その代り、本当は、もう少し、その場に居たいのに周囲に遠慮するとか、訪れた場所を全く覚えていないということはよくあります。それは主体性がないからです。周囲の空気を読んで、行く場所を提案したり、リーダー的立場の人の意見に角が立たないように従ったりするだけだからです。

「お友達といっしょ」の依存は主体性をなくす

このように、常に「お友達と一緒」でないと行動できない習慣は、何を持ち、何を持たないか、という些細に見える価値観にも影響します。その「お友達間」で「あら、いいわね」と言われるものを考慮して選ぶからです。

私は、しょっちゅう単独でいろいろなところに出かけます。その際に、たまたま近くに居合わせた女性のグループの方が、「気を遣ってくれている」と感じることがあります。それは「一人で来ている」→「友達いないのかも」→「かわいそう」→「気遣ってあげなくては」という事なのでしょう。

声をかけてくれることは、ありがたく受け止めています。現実として、さりげなく声をかけてくれる人というのは、間違いなくいい人で優しい方です。実際は一人で行動していて、全く心配がなく、むしろそのほうがいいと思っていても、それは私の場合であり、他の単独行動者の全ての人が同じような事情だとは限らないからです。

中には、本当は誰かと一緒に来たいのに、仕方なく一人で来ている・・という人もいるかもしれません。そういう時に、そうした声かけは非常に価値が高いですし、うれしいことでしょう。私も、そういう声かけをしてくれる方に対しては、純粋に嬉しいと思います。

こういうときの「行き当たりバッタリ」に出会った方との会話は柔軟に楽しんでいます。それで充分です。

そして実際に、現在、頻繁に一緒に行動するという意味での友達はいません。作りません。

以前は定期的に友人と会ってどこかに行ったりお茶をしたり、という事もありました。それはそれで楽しかったのですが、今はそういう生活はしていません。

それに対して問題視もしていないし、悩んでもいないし、改善する必要性も全く感じません。誰かと出掛けたいときには、夫のスケジュールがあえば、夫と出掛けるのでそれで十分満足しています。

「一人でいないがための相手」を友人とは呼ばない

「一人でいないがための相手」を友達と呼ぶのであれば、そうした相手を私は必要としません。そうかと言って、人が嫌いとか、複数で過ごすことが楽しくないとか、人と話すのが嫌だとかいうことでもありません。

子供向けの夏休みなど用に作られる日本のアニメのテーマは、たいていが「友達を作ろう」「友達が大事」です。それに対して欧米の子供も観る映画のテーマは「勇気を出して行動しよう」です。小学校に入学する前から幼稚園では「友達百人できるかな」という歌を歌わせられます。

こういうちょっとした「友達最強!」みたいな価値観に知らず影響を与えるのでしょうね。

そしておそらく、日本が災害の多い国であるということから、人同士が協力することが不可欠であるという事情の流れも汲んでいると思われます。

それから市場における消費面でも、単独行動されるより複数行動してくれれば利益が出やすいのです。だからメディアもこぞって「誰かと一緒に」訪れるのがいいという雰囲気を盛り込みます。

けれども、人間関係に悩む人が多いなど、本末転倒な現象があちこちで起きています。本当の友達・・って、本来は自然発生的に相手に対する慈愛の心情や、対等な共感する気持ちから生まれるものだと思うのです。同時に見返りやメリット、デメリットとは無縁のものです。

ところが例えば、よくある「ママ友同志のトラブル」は、グループを作ることによって「友達多いほど良い教」の一人として、母親たちの中の立ち位置の上にいるという安ど感のためだったりすることがあります。

いわゆる「マウンティング」のように、そこに見えない階層を意識したものがそれぞれの根底にある集まりは、友人とは言えません。これはママ友に限らず、子供の中にも似たような現象があるようです。

もちろん、ママ友の全てがそういう集まりだというわけではありません。実際に、私も子供が小さいころは、ママ友と楽しい日々を過ごしました。その友人とは、つかず離れずの、程よい距離を保つようにお互いそうしていました。

自分から言わない限り、旦那さんが何処に勤務しているとか、年収がわかるような話とか、あれを買った、これを買った、という話はあえてわざわざ持ち出す必要性を感じない事に、互いにそれぞれがわかっているような良い間柄でした。

そんな感じが程良いなあと思っていて良い時期を過ごせたと思っています。

一期一会で居合わせた人も友人である

ハイキングなどに行くと、たまたまバスで隣になった単独出来ている初老の女性と少し会話を交わすことがあります。そのときに感じるのは、そのように一人で来ている女性は短い言葉の濃度が非常に高いということです。

一見、穏やかでぶらりと行動しているように見えるのですが、少し話をしてみると、「強い」という事が瞬時にわかります。もちろん、内面の強さです。同時にブレのなさを感じます。

そういう時には、ついさっき見かけた野草の話やルートの情報交換だったりします。この瞬間、私とその初老の女性は間違いなく「友人」です。

そしてバスが目的地に到着すると、互いに軽く会釈をしながら、分かれて行きます。一期一会ですが、それでも「友人」であったことに違いはありません。

「トイレに一緒に行く相手」はもう必要ない

幼い時には「トイレに一緒に行くための相手」を友達と呼びます。けれども、大人になるとそういう種類の相手は必要ではなくなります。単独でいないがための、「一人で寂しそうと思われないための友達」も必要ではなくなります。

そして、ほんの一瞬でも、互いの詮索なしに、その場の現象だけに共感して喜びを共有できる相手を友達と認識するようになります。それは継続的に会う必要もないし、連絡先を聞く必要もありません。縁があればどこかでバッタリ再会することがあるかもしれませんが、それっきりかもしれません。けれども、それでも良いのです。友人には何の見返りも期待しないからです。

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